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椎間板ヘルニア闘病記
手術終了後の作者。
写真 ヘルニア手術後
 手術終了後、ベッドで横向きに寝かされている作者。
 腰の手術であるため、直後は仰向けに寝ることが出来ず、横向きになっている。痛み止めの点滴をするとすぐ眠ってしまった。その点滴は、3時間に一本しか使えないと言っていた。効き目は1時間半ほどで切れ、その後は痛みで「あー」とか「うー」とか言ってばかりだった。
 手術当日は自分で体の向きを変えることも出来ない(変えてはいけない)ため、2〜3時間おきに看護師さん2人がかりで向きを変えてもらった。夜中も然り。このとき夜勤だった二人の看護師さんの優しくも力強い眼差しは忘れられない。体位交換は中腰での作業なので、助けてくれる看護師さんの腰が悪くならないか逆に心配してしまった。僕は軽量(62kg)だからまだしも、重量級の成人男子だったらどうするのだろうか。仕事とはいえ、本当に感謝している。
 当然トイレにも行けないため、尿導管を挿している。自分でトイレにも行けず、寝返りも打てずに寝ていると言うのがこんなにも非人間的で辛いものか、と実感。いわゆる「寝たきり老人」の苦しみ悲しみは如何ばかりか、と心が痛んだ。
以下、簡略ながら、椎間板ヘルニア闘病の記録である。
「それが、この記録の始まりであるとは、思いもよらなかった。」
2004年10月中下旬
 PENTAX(東京新宿三井ビル・ペンタックスフォーラム)で行われた8月の初写真展も大成功に終わり、その後処理もひと段落済んだ頃だった。
 この頃は、前年の冬からずっと続いた過酷な撮影の日々と、初写真展の準備に明け暮れ、半年以上全く休みなく活動していたので、体中に疲労が蓄積していたのは否定できなかった。
 平日昼間の仕事、終わってから都心まで出て写真展本体の準備、広報してもらうための企業巡り、などなどで毎日深夜まで活動し、全く休む暇はなかった。土日も休みなく準備などに明け暮れ、本当に疲労困憊しきっていて、日々倒れるようにわずかな睡眠を貪っていた。
 そしてこの苦しくも楽しい日々が終わり、ようやくひと息つけるな、としばらくの休養を決め込んでいた矢先の出来事である。
 ある朝のこと。
 僕はいつものように朝5時過ぎに目覚め、ベッドから起き上がった。写真家は普段から早寝早起きなので、早朝起きるのは何の苦もない。快適な朝。新聞を取りに行く。起きぬけの牛乳。そんな健康的な朝を迎えていた。新聞を読む。ふむふむ、なるほど。全くいつもと変わらぬ朝
 そして朝食。そのとき。。。
 僕は何かを取ろうとして、ひざを曲げてかがもうとした。正にその瞬間、右臀部(お尻)から太股裏に、いきなり激痛が走った!激痛のため太腿裏が突っ張ってしまい、腰を曲げることがほとんどできず、僕はその場に立ち尽くしてしまった。その瞬間は、あまりの電撃痛に一体何が起こったのか分からなかった。立ってれば痛みはなく、腰を曲げようとすると、右臀部から太腿裏に激痛が電撃のように走るのだった。気を取り直して、「肉離れでも起こったか?」と思いなおし、とりあえずそこに湿布を貼った。
 この朝の僕は、「でも何でこんなことで肉離れになったのか?何もしてないのに!そんなトシとったかなぁ。。。」と全く違う方向にかなり悩んだのだった。今思えばの話だが。。。
2004年10月下旬〜11月上旬

10月上旬から2週間ほど休養できたので、そろそろ次の夢に向かって撮影を開始するかな、思っていた。折りしも紅葉の盛りの時期である。紅葉情報を調べつつ、疲労も鑑みて、さほど遠くない東北、新潟県中越地方に撮影の旅を考えていた。この辺りはここ数年、密かに見つけた紅葉の素晴らしい場所があり、とても楽しみにしていた。
 しかし。。。またもや予想もしない出来事が。。。
 ちょうどその頃、あの「新潟県中越地震」が発生したのである。中越地方を襲った未曾有の大地震。TVでは次々と大災害であることを伝えていた。「こんなとき、俺は撮影なんてしてていいのか?」「自分だけ良ければいいのか?」「人々が嘆き苦しむこの現実から、目をそむけていいのか?」この激しく自問した。
 そして。答えはすぐ出た。「救援ボランティアに行こう!」
 新潟県中越地方には、すばらしい自然風景がある。僕も今まで、数々の素晴らしい写真を撮影できた。それはとりもなおさず、かの地の人々や自然風景のおかげである。それが危機に瀕したとき、僕だけのために撮影などしてていいわけない。もちろん、写真以外に特別な技能はないが、それでも厳冬期の北海道や極北の地アラスカでの過酷なアウトドア活動豊富な自分だ。きっと何かの役に立つに違いない。そう思った僕は、すぐに被災地までのバスチケットを手配し、いつものアウトドアザックに、15kgの一週間分の自活用品を積め、職場のボランティア休暇を取り、現地に急行した。
 しかし。。。
 この時の僕はまだ、右臀部から太腿裏にかけての痛みがあり、相変わらず湿布を貼っていた。すぐ直後にまたもや激痛が走ることなど、全く頭にないほど、義勇の心に燃えていたのだが。。。
 
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2004年11月上旬
 現地入りしてからさまざまな復興活動のお手伝いをしていた僕だが、夜になってテントで寝入る(屋根のある場所に泊まるのは申し訳ないので、テント持参で寝ていた)頃には太股裏の激痛に耐えられないほどになっていた。湿布を張り続けていたものの、気休め程度の効果しかなく、疲れで寝入るのを待つほかはなかった。
 そして、ボランティア活動最終日のことである。
 その日は午前中に崩れた石垣の修復をし、農作業の手伝いをした。すでにこのとき、全く前屈できないほどに悪化、なんとかだましだまし農作業をした。さらに午後。今度は子供たちの遊び相手だ。いろいろな遊びをしたあと、それは待っていた。
 「おんぶ競争」である。「まずいな。。。」と思った。しかし最終日。それに子供たちの笑顔。「腰痛くてできないんだよ。」とは言えなかった。なかでも、ある小学生の女の子が僕の事を気に入ってしまい、毎回毎回「ご指名」。その子をおんぶして走ってやると、とても大喜びして、本当にうれしそうだった。その女の子の笑顔で、僕の心の中の何かが優しくなるようで、僕自身とても感激した。彼女の喜びと同じくらい、僕もうれしかったし、楽しかった。しかし、壊れかかった身体は正直で、もう走れないほどに右側の足腰が痛んでいた。さらに何回も何回もおんぶ競争していたそのとき。。。
 腰の辺りで、何かが潰れたような感じが。。。走っていた僕は一瞬チカラが完全に抜け、腰からくず折れた感じになり、あやうくその女の子を落としそうになった。しかしなんとか耐え、完走。「もう駄目だ、歩けない。。。」幸いその直後におんぶ競争は終わった。正直ほっとした。
 その女の子は「明日も来てくれる?と僕に聞いた。僕は「ごめんね。今日で最後なんだ。明日帰っちゃうんだよ。」と答える。いままで本当にうれしそうな顔をしていたその子は、泣きそうな表情を見せた。僕は胸に貼っていた、あだ名を書いたガムテープを、その子に貼ってあげた。その子ははにかんで、「ありがとう!」と言ってくれた。その子の微笑みと同じように、僕もまた微笑んだ。僕は体の痛みに泣きそうだったが、それ以上に、この子の心の温かさにも泣きそうだった。
  そして最終日のテント。もう寝返りも打てないほどだった。常備薬の痛み止め(頭痛薬)を初めて飲み、なんとか寝入った。
(これらの「事件」は誰に話しても理解してもらえないのだが、こんな悲惨な体の状態になった今でも、全く後悔していない。この少女の笑顔に、はたまたお話をうかがった見知らぬお爺さんの涙に、今までの生涯で感じたことのない、人間の心の温かさを眼の当たりにし、まさに「助けに行ったはずが、助けられたのは自分だった」と分かったからである。) 
2004年11月中旬
 新潟より帰京後すぐに整骨院へ。そこは以前首の治療をしてもらったところで、なかなか腕がいいところだ。通院すると、すぐに膝が曲がってしゃがめるようになった。さすがの腕前だ。しかし相変わらず前屈は出来ない。右臀部から太股裏が突っ張ってしまい、前屈しようとすると激痛が走るのだ。ここに何度か通院したのだが、痛みは治まらず、ついに前屈は出来なかった。足を引きずる僕は、とても撮影などできる状態にはならなかった。
 しかし。。。
 なんと!ここでまた僕は無茶をした。再び冬のアラスカ撮影に行ったのである。どうしてもアラスカに賭けたい気持ちがあったので、撮影を強行したのだ。もちろん厳冬期、しかも30kgの機材を背負って、だ。このときは激痛の右足を引きずりつつの撮影で、集中力もなく、当然ながらあまりよい写真は撮れなかった。カラダと精神は一体であることを痛感。
 帰りの飛行機はまともに座ることさえ出来ず、右側のお尻を浮かせてカラダを傾けて無理矢理座っていた。(隣に座った青年が面白可笑しい人で、ずっとバカ話をしゃべリ続けてくれたので助かった。彼がいなかったらこの飛行機は激痛地獄だっただろう。)もう滅茶苦茶な旅。まさしくこれが、致命傷だった。
2004年11月〜2005年1月
 帰国後再び整骨院へ。しかしなかなか痛みは引かなかった。
 それと平行して、知人が教えてくれたマッサージにも行く。1時間くらいかけてマッサージをしてくれるのだが、これがとても気持ちよかった。マッサージの腕もいいが、何より人の話を聞くのがうまい人で、疲れ果てた心の癒し効果もあったと思う。おかげで筋肉も徐々ほぐれ、やや前屈できるようになる。
 しかし右臀部から右太腿裏の痛みは相変わらずで、そのうち資金が枯渇してきてしまい(保険適用ではないので、毎回数千円以上のの出費は痛かった)、やむなくマッサージを断念せざるを得なかった。
2005年1月下旬〜2月
 マッサージ資金が枯渇しかけて来た頃、その効果で、痛みはやや治まってきた感じもしていた。
 しかし。。。
 ちょうどその頃、、病状に重大な変化が訪れた。右足底がしびれてきたのである。ここに至って初めて「まずいかも?」と思うようになり、「ひょっとしてコレ椎間板ヘルニア?」と不安になってきた。
 そこで近所の整形外科受診。紹介先の病院でMRI撮影。病名は「椎間板ヘルニア」と断定された。とりあえず鎮痛剤をもらう。他にも患部を温めたたり、牽引したり。しかし薬以外効果はなし。逆にどんどん悪化。痛くて歩けないほどになる。
 腰痛を和らげる運動を教えてもらう。このときのリハビリの先生は、非常に面倒見のいい先生だった。先のマッサージの先生と同じように、僕の話をじっくり聞いて、効果的なアドバイスをくれた。運動の効果はすぐには出なかったが、ずっと落ち込んできた気持ちを受け止めてもらえたようで、それだけでも救われた気がした。
 ここの整形外科は、受付のお姉さんから先生、看護師さん、リハビリの先生まで非常に感じのよいところで、僕はとても助かった。ほんとうにいいお医者さんだと思った。
 ところが肝心の痛みはすぐにはよくならず、ますます撮影どころではなくなる。痛み止めを一日3回も飲む。
2005年3月
 ひたすら安静に努める。お尻のホネに間に直接打つ「ブロック注射」(これがすんごく痛い!)や、飲み薬、腰痛体操の効果もあり、徐々に痛みが軽快していった気がした。プールで水中ウォーキングや散歩も出来るようになる。撮影にも復帰できる感じもしてくる。整形外科の先生、リハビリの先生も運動にOKを出してくれた。思わずWebに「復帰近し?」の書き込みをする。
2005年4月
 しかし。。。
 鎮痛剤の副作用で、消化器障害が出てくる。腹部膨満感が出て苦しく、食欲が落ちる。便が出なくなる。ゆえにクスリを飲むのを止めた。すると!激しい痛みが復活してきた。今までの軽快感は、全くもって一日3回の痛み止めのおかげであったことを知る。これは大きな勘違いであった!ブロック注射を何回もする。注射時激痛いだけで効果ほとんどなし。ほとんど歩けなくなる。5分と座っていられないほどの痛み。ついに1ヵ月間自宅安静になる。だが安静にしていても、一向に良くならない。寝ていれば多少楽なのだが、依然として激痛状態で夜も眠れないくらいだった。
 ネットで「椎間板ヘルニア」情報を必死に探す。と、何とまあ、膨大な量の情報が。多くは体験談とかFAQなのだが、こんなにも多くの人が、この病で深刻な悩みを抱えているとは思いもよらなかった。体験談は「ヘルニア地獄日記」とか、「激痛病棟」など、縁起でもない?ものばかり目に付く。数知れない一般市民が、こんなにも眠れないほど激痛ヘルニアに悩んでいるのか!非常に驚いた。
 「ヘルニア向け」鍼治療にも数ヶ所通った。これまた全く効果なしだった。だがある針の先生は非常に優れた先生で「これは鍼では治せない。」と正直に言ってくれた。「鍼にも適応、不適応がある。治らないから何度も来させるとか、回数券などを買わせるなどはけしからん。」「大野さんはかなり重症。残念ながら鍼の適応ではないだろう。外科的手術しかないんじゃないか?もし手術しないなら、1年くらい安静に寝ながら、鍼で徐々に痛みを和らげることもできるけれど。しかし大野さんは若いし、それでは時間的費用的にもったいない。」とはっきり言う。結局は鍼で治せなかったのだが、この先生の真摯な治療態度には十分納得できた。治療の限界を潔く認め、語ってくれる先生は非常に素晴らしいと思った。こういう人を、真の「先生」というのだろう。
2005年4月下旬
 4月下旬には、通っていた整形外科の先生にも、ついに手術勧告をされてしまった。手術可否の検査のため、大病院への紹介状をもらう。あー、ついにここまで来てしまったか。
 しかし!そこでまた問題が。。。
 とある大病院で。
 診察、検査に行ったところ、どうも病院全体の雰囲気がイマイチ。綺麗ではないとか、暗いとか、そういうことではなく。なんとなく、僕という存在が軽んじられてるような。診察でもなんとなく「モノ」扱いされてるような。その感じは、言ってみれば「不快感」だった。
実は僕には「医療アレルギー?」というものがある。それは十数年前の左足首の手術でのこと。幼き頃よりサッカーをしていた僕は、大学でもサッカーをしていた。ところがある試合で左足首距骨靭帯を断裂、手術になった。手術前、先生に「靭帯をつなげるだけ。3ヶ月で以前と同じようにサッカーができるようになる。」と言われて安心して手術に臨んだ。
 その結果。。。
 いつの間にか、手術前に言われてもいない「人工靭帯」を入れられた。その後のリハビリでも全然リハビリ方法を教えてくれず、結局は足首が十分に曲がらなくなり、以前のようなプレーは全くできなくなった。この手術の失敗により、幼少期より情熱を傾けてきたサッカー人生から引退せざるを得なくなった。その先生は僕にこう言った。
「キミのリハビリが悪いから曲がらないんだよ。人のせいにばっかりするなよ。」
 僕はまさに「切り捨て」られたと思った。あの悔しさは生涯忘れないだろう。
 今度の病院でも、この「不快感」をなんとなく感じた。以前の屈辱の記憶が蘇る。僕には恐怖感が芽生え、その病院での手術を諦めた。救われに行ったはずが、逆に奈落に落とされたようだった。がっくり落ち込んだ僕は、またしばらく安静に待つ以外はなかった。
 整骨院然り、マッサージ然り、鍼治療然り。いわゆる民間療法の先生は、みな真剣に、僕の病に、僕の悩みに向き合ってくれた。
 だがこれに対し、いわゆる西洋医学の医療関係者は、「たかがヘルニア」「そんなことで何悩んでるの?」のような軽い捉え方をしている人が多いのは何故だろうか?僕が今回の件で相談した医療関係者でも、そういった「冷たい目」で見下す人が意外な割合でいることに愕然とした。目の前の患者を、ネット上で嘆き苦しむしかない患者を、「診て」いないのだろうか?
 だが今度は違った。
 前記かかりつけの整形外科の先生がこう言ってくれたのだ。「病院なんかいくらでもある。嫌な感じがしたなら、やめればいい。いくらでも紹介してあげるから、そこはやめればいいじゃないか。」
 ありがたい言葉だった。危うく前回と同じ失敗を繰り返すところだった。この先生は、僕を「切り捨て」なかった。「信じられる先生もいるんだ。」そう考え直した僕は、再びいくつかの大病院めぐりをすることになる。
2005年4月下旬〜5月上旬
 ゴールデンウィークである。何も予定のないGW。何もしないGW。こんなのは何年ぶりか。いつもは喜び勇んで撮影の旅に出ていたのに、今年はただ倒れていた。しかも手術するかどうか、昼夜を問わず不安にさいなまれる非常に辛いGWであった。気分はどん底に沈んでいた。
 だがひとつだけいいことがあった。昨年アラスカで知り合った理学療法士の知人が、ちょっと相談にのってくれるというのである。僕のメールがかなり深刻に見えたのだろう。とてもありがたい申し出である。ただし少し離れた地方に住んでいるので、痛む体を無理に動かして新幹線で会いに行った。片道1時間半ほどの新幹線。そのくらいなら大丈夫だろう、と思ったのだけど。。。
 駄目だった。とにかく歩けない。座っていられない。10分が限界。右臀部から太腿裏にかけて激痛が!どうにもならない。立ったり座ったりを繰り返して、なんとか到着。もう限界越え。歩けない立てない座れない。もう動けない。駅まで車で迎えに来てくれたその人がホトケに見えた。
 会談の結果、やはり手術しかないんじゃないかということになったのだけど、その人はいろいろ相談に乗ってくれて、精神的に救われた気がした。僕の病状を診てくれたことはもちろんだけど、僕自身を診てもらえたようでとてもありがたかった。
 話は前後するが、知り合いの医師が個人的に相談にのってくれたこともあった。この頃の僕は手術を回避したい一心であれこれ悩み、なおかつ前記のような「大失敗」もあったので、これも見るに見かねて助け舟を出してくれてのだろう。ネットで調べた資料やら文献のコピーやらをたくさんくれた。診察を受けるわけではないのに、カネもうけにもならないのに、この親切。ありがたいの一言に尽きる。
 やはり人を助けるのは人なんだ!と強く思うと同時に、私益利益にならないことに汗をかいてくれる人々のありがたみ、心の温かさに心底感謝した。
2005年5月
 GWを終えて。この悪魔のような痛みから解放されるには手術しかないというのがいよいよ明白になってきた。
 そこでまた前記のかかりつけ整形外科医の先生を受診。いくつかの病院紹介、病院めぐりを経て、最終的にあるひとつ病院を選んだ。
 
この病院で、僕は約1ヶ月お世話になることになる。
2005年5月18日
 入院前日。入院用荷物をどう運ぶかで悩んだ。この激痛では何も持てやしない。最初病院の外来へ電話した。「病棟に荷物を送っていいですか?」だが見事に完璧に断られた。「困ったことあったらなんでも私に言ってください。」とか言ったから電話したのに。こういうところでリップサービスされても困る。
 しかし駄目と言われても身寄りの無い自分はどうしようもない。誰に頼るわけにもいかないのだから。
 切羽詰って今度は入院予定の病棟へ直接電話した。そこの病棟の事務担当の方が親切で、「いいですよ。」と快く言ってくれた。本当は駄目らしいが、誰にも頼る者のいない理由を話したら認めてくれたのだ。ありがたい。あきらめの悪いのは、普段の撮影活動のおかげか?とにかく助かった。どこかに救いの神はいるものだと感謝。荷物の問題はなんとか解決し、近所のコンビニから宅配便で病院へ送られた。なんでもひとりでクリアしなければならないのは大変だ。この先が思いやられた。
2005年5月19日〜6月16日
 入院。残りわずかな日用品を背負い、家から駅へ。電車に乗って、駅から病院へ。もう歩くのが苦痛でたまらない。5分と同じペース歩けない。ずっと激痛の右足をひきずったままだ。貧乏ゆえ、タクシーを使わずに這うように歩いていく自分が情けない。人生の苦楽はカネで決まるのか。。。遅ればせながら気付いた事実に、歯ぎしりをするほかはなかった。
 足りないものやら暇つぶしの本やらは、後で友人が持ってきてくれた。
(この友人は仕事が忙しいのに結構見舞いに来てくれて、本当に助かった。僕は付き合いが下手なので友人は少ないが、いつも仕事後にあせって駆けつけてくれる姿には心から感謝した。)
 そしてついに5月30日、某病院にて椎間板ヘルニアの手術を受けることになる。
詳細は下記参照。
2005年5月19日
 午前中に入院。病室は8階。ベッドは窓側となった。景色を見るのが好きな僕には、非常にありがたい。窓に向かって景色を見ながらご飯を食べるのは、とても気持ちがいい。眼下には新緑の木々。以後の入院生活の楽しみとなった。午後改めてMRI検査
 担当看護師さんとやらが来たので、普通に挨拶。これからずっと担当になるのかと思って、見舞いの客まで挨拶に行かせたらこれが大間違い(恥)。担当看護師とはその日の担当であって、以後、ほとんど毎日担当の看護師さんは変わるのであった。これは最初に言って欲しかったですね。
 その後またまた「担当です。」と現れた女子。おいおい今度はなんの担当だよ?と思ったら、それが主治医の先生だった。先生ゴメンなさい!
2005年5月20日
 ミエログラフィー(造影)検査。これが「魔の検査」であった。
 背骨の間から造影剤を入れて検査するのだが、これがちょー痛い!と言われていた。実際かなり緊張した。だが、痛み自体はそこそこで、「なんだ大したことないや。全然「魔」どこじゃないじゃん。」と思って勝ち誇った気分になっていた。
 そのまま月曜日の手術の説明を受ける(この日は金曜日だった)。執刀医、主治医からの説明を自分だけで受けた。珍しがられた。他に誰も聞く人がいないのだからしょうがないじゃないの。。。まあいいや。そこまではなんとか順調に思えた。
 しかし!夕飯を食しているとき、途中でいきなり激しい頭痛、発熱に襲われる。そのまま即、食ったばかりの夕飯を吐いた。造影剤が頭に入ってしまったらしいと言う。なんてこった。。。
 僕はなめていた。ミエロはやはり「魔の検査」であった。
2005年5月21日
 激しい頭痛続く。僕は普段風邪などひいたことない超健康体なので、頭痛という痛みに慣れていない。前回を思い出せないほど、何年ぶりかの激頭痛にショック大。しかもこの日は誕生日。史上最悪の誕生日となった。
2005年5月22日
 日曜日。何もないので、術前の最後の日を寝て過ごす。時折読書。しかし相変わらずの激しい頭痛でほとんど読めなかった。
2005年5月23日
 午後1時半から手術予定。朝から絶食。浣腸もした。手術着に着替えた。いよいよだなあ。この日が来ちまったなあ。痛いんだろうなあ。出来れば今後1週間、時間をスキップしてほしいなあ、なんて調子のいいことを考える。手術用寝台に乗せられる。同室の患者さんに挨拶。「行ってきますぅ。」とりえあず引きつった笑顔で。
 出発。手術室へ入る前の「準備室」のようなところへ行く。脈を計る。OK.。術前の筋肉注射をする。あたた!早くも痛がる。さて手術へGoだ!「最後に検温を」とのこと。もう手術室へ行く直前、5分もなかった。だが。。。
 なんと手術はそこで緊急中止!なんで?体温が高かったのだ。まさか?体温は38度だった。すでに筋肉注射を終えていたので、「大丈夫ですよ。やっちゃってくださいよ。緊張してるだけですから。」と言ったものの、先生の判断で緊急中止に。安全のため、当然の決定だったが、気合い入れまくりの僕は腑抜け状態に。病室を出てわずか15分後に舞い戻るという失態を演じた。
 意気消沈して部屋に戻ると、既に僕のベットメーキングをしてくれていた係の人が慰めてくれた。「あれれ?戻ってきちゃったの?中止?かわいそうに。。。」なんて優しい一言だ(泣)その場はこの一言に救われた。
 その夜。相変わらずの激頭痛も治らず、何のために入院したのか、分からなくなる。アタマの手術に来たんか?がっくりして頭痛に打ちひしがれていた。
2005年5月24日〜29日
 一度手術が中止になると、今度はいつするのか?不安になる。野球の投手は、雨で試合が中止になり、翌日等に「スライド登板」になると集中力を持続させるのが大変らしい。僕は野球を真剣にやったことがないので比べようもないが、手術の「スライド」も精神的にかなりきつかった。しかも次の日程は決まっていない。主治医曰く「緊急手術としてどっかに入れてもらうしかないねえ。私も頑張るからさあ。」。どこか先生も元気ない。先生も「スライド」でがっくり来たのか。迷惑かけてごめんなさい!あー我ながら大失態だ。ただ執刀医の先生も、主治医の先生も、「いきなり中止にしおってぇ!」というようなそぶりは微塵も見せなかったので少し安心もした。
 その後主治医の先生が頑張ってくれて、結局当初予定の一週間後、30日に再決定。院内各所からだいぶ文句も言われただろうに。。。先生ありがとう!
 この間の一週間は、足腰よりも発熱と吐き気と激頭痛と闘う一週間。アタマの手術をするような妙な気分はぬぐえなかった。。。
2005年5月30日
写真 ヘルニア手術後
 この日朝8時、手術決行。頭痛、発熱も治まっていた。今度はなぜか筋肉注射2本。「緊張を和らげるため」だとか。んー、前回の中止で根性なしに思われたのが悔しい。しかしあれって根性の問題か?ミエロのせいでしょ?でも根性なしかな?写真活動時の死ぬ気の根性はどこへやら?人間守りに入ると弱いというは本当だナ、などとつまらないことを考えた。
 今度はもちろんOK。手術室で先生のお顔を拝見したとたんに、眠りに落ちた(全身麻酔)。最後の記憶は先生の眉毛。(もし万が一事故があれば、生前の最後の記憶はあの先生の眉毛となったのだ!なんで?)
 手術は無事に終了。様子はトップをご覧ください。
2005年5月31日
 終日倒れていた。あれこれ痛い!しかし倒れてばかりもいられない。術痕の痛みに耐えつつ、徐々にベッドを起こしていく練習。ベッドアップ60度を目標に頑張る。ちなみにコルセットを着用したのはこの日だったか?胸の下まである市販品より大きいもので、キチンと採寸した特注品だ。これを今後3ヶ月は着用することになる。
2005年6月1日
 この日もベッドアップ60度を目標に頑張っていたら、先生が微笑みながら車椅子を持ってきた。いきなり座ってみろという。えええ?って感じ。尿導管を外し、車椅子に乗る。膝がうまく使えなくて、ベッドからの乗り移りが難しい。なんとか座る。トイレに行く。また便座に乗り移れなくて、それだけで15分もかかってしまう。この時間が耐え難い。えらいこっちゃ。情けないより生物としての大問題だ。便が自由に出来ない辛さをまたも味わう。ここは頑張るしかないと思いなおす。きっと「こんなことで」頑張るなどとは恥ずかしくて誰も言わないのだろうけど、患者のみなさんはひそかに「頑張っている」に違いない!と勝手に思いつつ自分を励ました。
2005年6月2日
 リハビリ開始。まずは立つ練習。これが立てない。一瞬立つことは出来ても、立ち続けることができないのだ。全身麻酔で何もかも忘れてしまったか?実際にはそんなことあるわけないのに、とにかくできない。いったいどうしちゃったのか?一度「立つ」という記憶がリセットされてしまうと、こんなにも難しいのか。まるで赤子が立つ練習してるようだった。
 リハビリの某理学療法士さんがとてもクレバーな人で、的確なアドバイスをくれる。言葉の使い方ひとつで、こんなにもうまくいくとは!アドバイスとはこういうものだと実感。とてもありがたく思う。
 おかげで、3時間以上経てちょっと(数秒!)立てるようになった。この日は「立てるようになるまで病室に戻らないそ!」と決めていたのでひと安心。
 これができたおかげで、膝の使い方も思い出し、トイレの問題も解消。出口を確保?したことで、食欲も出てくる。
2005年6月3日
 再び立つ練習。なんとか立てるようになる。立つようになると、今度は歩きたくなる。「今日はこれでもういいや。」なんて思わない。僕にはアラスカが待っているのだから。したがって歩く練習を勝手に?やりはじめる。
2005年6月4日
 車椅子生活を経て、次に歩行器を使い始める。このころから急速にリハビリは進展した。誰にも言われなくとも、どんどんやる。まだ「ロボット歩き」のようにぎこちなかったが、ガシャガシャ?となんとか歩き始める。幼き頃の僕もそうだったのだろうか?子供がいる人は自分の子供で追体験するという。ところがまだ独身の僕には太古の記憶。「歩き方」というのを思い出すのは大変だった。
 急速にリハビリが進展したのは理由がある。とある病院関係者に「痛がってばかりで弱いわねえ。」と嫌味を言われたことがあった。これが悔しかった。
 確かに僕は痛がりだったかもしれない(これは今思うに十数年前の足首の手術が影響しているのだと思う。あのとき心身ともに痛んだ深層の記憶が忘れられないのだろうか?病院に行くとなぜかすぐに痛がってしまうのは事実だ。)。しかし実際に「痛くもない」あるいは「その病に陥ったこともない」人間が、そういう発言をするのは心の底から許せなかったし、とても心が痛んだ。
 先ほどの民間療法の方々の話ではないが、人を癒すべき医療に携わる人間が、このような発言をするのは全く考えられない。心と体は「一心同体」ということを忘れている。「カラダという物体」さえ治れば、心は二の次、のような。たしかに、「逆の意味の言葉で発奮させて励ます」なんてことも考えられる。だが他人を軽蔑するようなそんな言葉は、まずもって問題外だ。
 病院の関係者は、熱心に「癒し」てくれる人が大多数だった。その人たちには、心からとても感謝している。しかしそうでもない人もいることは、一般社会と同じだった。心身ともに傷つき、病院と言う閉鎖環境へ入院してしまって選択の余地のない患者にとって、その言葉は避けようのない痛みとなって心に刺さる。これはとても残念な出来事であった。
 写真家も「癒し」を求める職業。熱心に「生きている」人間に対して、あのような言葉を吐く人間になってはいてはいけないと深く心に誓った。
2005年6月5日
 術後初の日曜日。リハビリも休みで、患者も病院も「休養日」となる。はずだったが、僕は「自主トレ」に励んだ。休んでる場合じゃない。僕は「モノ」じゃないんだ。そういう思いが、僕を突き動かした。
 誰もいない外来の廊下で、痛みをこらえつつ、歩く練習をした。
2005年6月6日〜14日
 どんどんリハビリに励む。普通の患者さんは、1日に1〜2時間程度リハビリ運動してあとはベッドで休養、となるが、僕は朝9時から夕方5時までリハビリに励んだ。つまりリハビリ科の「営業時間」全部である。「あまりやりすぎると良くない」というのもアタマでは理解できる。けれど「負けたくない」という心がそれを拒否していた。「一日中入り浸っている」というまたまた嫌味な言葉も聞いたが、別に遊んでいるわけではないので気にしない。僕はそれこそ一日中、機能回復訓練に励んだ。これは自分自身の「名誉回復」の運動であると思いながら。
同上
 リハビリは立つ練習→歩く練習へとどんどん進む。何日か経って、病院の中庭にまで出れるようになる。久しぶりの屋外!青い空、白い雲。なんて気持ちいいんだ。頬をなでる風がこんなにも気持ちいいとは!心が晴れ晴れとする。やはり自然は人を癒してくれる。これを「空気浴」とでも言うのか?空調環境の整った病院もいいが、不規則に流れるこの自然の風が、僕には最高のクスリだった。
 この風は、この空は、あのアラスカに続いているのだろうか?僕はまた、あの大地へ行けるのだろうか?カラダは悲痛な叫びをあげていても、想いだけは遥か彼方へ飛んで行った。
同上
 リハビリ室では何人かと心休まる面白い出会いもあった。ある人は、「カメラ好きな理学療法士さん」。なんと、ペンタックスSP(1964年発売)とスクリューマウントレンズ群を持っているという!「おおー!すげー!」なんて感心してると、実際に持ってきてくれた。「触っていいですよ。」とか言ってくれる。うれしい!久しぶりのカメラ。タクマー55mmF1.8を着けて持ってみる。おおっ。いざ構える。
 しかし!腰痛い。。。重い。。。持てない。。。こんな超軽量セットでも持てないのか。構えると、腰が安定しないのでぶるぶる震えてしまう。これでは我が愛用のヘビー級ペンタックス645Nとか67Uなんて持てっこない。厳しい現実に愕然とし、暗澹たる気持ちとなった。
 だがその一方で、さらに「悔しい!」という思いが出てきたのも事実。カメラ好きの患者にカメラを持たせて、発奮を促してくれたこの理学療法士さん。その配慮と心の優しさに泣ける思いであった。
 またある一人は学生さん。将来理学療法士になるために実習に来てるという。この人の「話術」にも励まされた。
 ある老人がいた。僕と同じく毎日リハビリに来ていた。その人は車椅子に乗っていた。結構長く車椅子なのだろう。歩く練習をする平行棒の前にいても、怖がって?ほとんど歩けなかった。毎日ほとんど座ったままだった。
 ある日、その学生さんが老人に話しかけた。なにやら話している。と、おもむろに歩く練習を開始。ぺらぺら話してる間に、平行棒を往復していた!まるでハイジとクララ。素晴らしい話術だった。まったく感心した。
 「あーやって、こーやって。」「教えてるのになんで出来ないのか?」なんて言うのではなく、なんとなく接して、なんとなく快復させてしまう。まさにマジックだ。学生さんの話術に、老人の凍った心が溶かされたのか?
 人を救うのは、技術や知識ではない。紛れもなく、人である。ここでもそう確信した。学生さんに教わるなんて変な話かも知れないが、とにかく僕は教わった。彼にはその能力を活かして、是非立派な理学療法士さんになって欲しいと思う。彼には、彼にしか救えない、多くの患者さんが待っているのだから。
2005年6月13日
 手術から2週間。抜糸する。といっても「糸を抜く」ワケではない。最近はみんな、傷口を糸で縫うのではなく、ステープラ(ホチキス)でバチバチ留めるのだ。ホントに文具のホチキスと同じ。これをピンピン抜く。これも文具と同じ。「抜針」という言葉は分かりにくいので、「抜糸」のままなんだろうか。ホチキスの針は全部で7個あった。傷としては小さいのだろう。
 相変わらずの終日リハビリ活動で、病棟を留守にする僕。「おおのさんは早く退院させるかな?」という噂が聞こえてきていた。
2005年6月14日
 術後初シャワー。2週間ぶりだ。それまでも毎日清拭はしていたが、気持ちよさが全然違う。すかーっとした。コルセットを外すのが不安で、実際に外すと腰がヨロヨロしてしまった。これもそのうち慣れるだろう。
 とまあ、いろいろと「そのうちだな」と思っていたら、やっぱり退院勧告された。順調な快復とはいえ、まだまだ不安が残る中での勧告。実際はあまりしつこく「で、いつ退院?」とあちこちから聞かれるので、それがイヤになったのだけれど。。。
2005年6月15日
 退院前夜。この期に及んで、僕の退院後、というより将来の生活について衝撃的発言をされることになった。総合的にまとめると次のような内容だった。
今回手術したのは1箇所だが、あと2箇所も出ている。そこの椎間板も弱い。いつそこが悪くなってもおかしくない。この若さでそうなのは、大野さんは遺伝的に脊椎が弱いのではないか。どんなにリハビリしても、旧来のカラダに戻る可能性は極めて低い。一日300回スクワットをしてトレーニングに励んだ猛者もいたが、やはり難しかった。全力疾走、ジャンピングは一生禁止平泳ぎ、バタフライも同。30kgの機材を背負って極寒の地へ、なんて無茶すぎ。もしそれをするなら再発を含めた相当の覚悟をすべし。かくなる上は、写真活動をあきらめ、カノジョ作って嫁とりでもして、平穏なサラリーマン生活を送ったほうがよい。そうすれば普通のいい人生を送ることが出来るだろう。
 激しく落ち込んだ。僕の心は、日本海溝よりもマリアナ海溝よりも深い暗闇へ沈んでいった。平穏?普通?な生活って何???
 僕から写真を取ったら何も残らない。単なる仕事嫌いのわがままな変わり者。それがなんで「普通」に生きられるの?そもそも「普通」って何?
 僕は今まで写真があったからこそ、ここまで生きてこられた。「暗闇に潜む光」。それを探すことは、自分自身がこの世に生かされている証拠探しでもあった。
 僕はそのかすかな光に命を救われた。また必死に探し出したその光を、同じように光を失くした誰かに、生きる喜びとして捧げることで、自分の生きる糧ともしてきた。それがなくなったら僕の生きてる意味なんかないじゃないか!それがなくなったら、俺の人生って一体なんなんだ!
 あまりにも深く重い事実に、激しく慟哭する退院前夜となった。
2005年6月16日
 昼過ぎに退院。昼食を食べてから退院した。というのは、入院時自己負担食事代が「一日当たり○○○円」という計算だから。一食でも三食でも同じだというのだ。ほとんどの患者さんは、朝食後10時頃に退院というパターンらしい。僕は少しでも飯代を浮かせたかった。「昼飯食って退院したい。」と言ったら怪訝な顔をされてしまった。本当は晩飯も食いたかったけれど、さすがに嫌がるだろうと思って止めてあげたのに。。。
 入院時と同じく迎えも何もない。荷物は病院から自宅へ宅配便で送った。入院費用など全ての支払いを済ませ、わずかな手荷物だけで帰る。約1ヶ月ぶりの街。人も車も何もかもが速く見える。それはそうだ。病人ばかりのスローな世界とは違うのだ。そして電車。わずかな揺れがきつい。腰に響く。途中の駅で乗り換え。かなりきつい。自宅へ到着したときは、さすがに倒れた。その日は飯も食う気にならず、シャワーも浴びず、手荷物を放り投げてベッドに倒れた。そのまま寝入った。
2005年6月17日
 いよいよ自宅での生活。病院では何かあったら誰かが助けてくれた。しかしココは自宅。いろいろ難しい。第一、病院は建物の造りからして「病人用」にバリアフリーで出来ているが、自宅は違う。障害物だらけだ。モノにつまずいて、腰をかばうあまりに熱い味噌汁を浴びたときは泣けてきた。しかし仮に泣けても誰も慰めてくれはしない。苦しくても辛くても泣き叫んでも、それだけじゃ自分の人生を切り開けない。なんとかやり抜かなければ。ここから新しい闘いが始まったのだ。
2005年6月18日〜
 リハビリの毎日に明け暮れています。腰というのはカラダの中心であるゆえ、何をするのでもそこを使わずには動けません。今まで何のこともなく出来たことが全く出来なくなり、毎日歯がゆい思いばっかりです。時にはイライラしたりもするのですが、これは自分が選んだ道なのだ、これも僕の人生の一部なのだ、と自分に言い聞かせるようにしています。
 しびれはもうありません(2005年7月現在)。痛みは残念ながらまだ少し残っています。特に寝た状態から立ち上がるとき、座った状態から立ち上がるとき、あの悪魔のような痛みが一瞬右下半身に走ります。その瞬間はぞっとします。。。これも立ち上がって10秒もしないうちに消えますが、なぜそうなるのか、分かりません。

 あの退院前夜に言われたように、僕はもう、あの過激な撮影活動に復帰できないのだろうか?もう命を賭した写真活動はできないのだろうか?いやいや、やるだけやってみればいいじゃないか?やってみなければ分からないじゃないか?心の中で、体中で、葛藤苦悩する日々です。
 私は今、間違いなく、写真家人生の危機に直面しています。これからの自分はどうなるのか、不安と絶望、期待と希望、などなどが混沌として入り混じり、自分でもまったく分かりません。答えはそのうち、このWebで発表できたらいいな、と思います。
 10月には先ほどの友人の結婚式も控えています。僕はカメラ係として任命されています。それまでになんとか、一眼レフを持てるくらいにはならないといけませんね。 


どんなときも、夢と希望を忘れずに。
 いつもいつも、明日を信じて。

写真 桜一輪


病に苦しむ すべての人に
誰かを助けようとしている すべての人に
この花を 捧ぐ


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