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ルース氷河滞在記
・・・はじめに・・・
 この旅は、ネイチャーイメージの河内牧栄・真樹子さん、HAIしろくまツアーズの安藤さん、写真家・松本茂高さんのご助言、ご助力無しでは到底実現し得ない旅でした。まだ椎間板ヘルニアの術後完治していない、不安だらけの僕の旅を強力にアシストいただいたお三方に、心より感謝を申し上げます。特に、こんな僕とご同行いただいた写真家・松本茂高さんには、特段のご助力をいただきました。心より深く感謝いたします。

 

写真 ルース自画像

僕はこの旅で、
間違いなく新たな光を手に入れることができました。
その一方で、
間違いなく新たな闇をも、同時に背負うことになりました。
 
生きるとは何か?
光とは何か?
なぜ人は、輝く光だけを追い求めるのか?

なぜ人は、
「光」と対になるべきはずの「闇」を忌み嫌うのか?
「闇」は果たして、本当に「闇」なのか?
「光」は、「闇」なくして存在し得るのか?
僕はまた、全く分からなくなりました。

いま僕は、自分の生きる目的さえも、分からなくなっています。
何をもって、人生を歩めばいいのか、分からなくなっています。
またしても僕は、写真の真髄を窺い知ってしまったような、そんな苦悶の日々が続いています。

 僕はなぜ、ここまでして写真を撮るのか?
なぜこんなにも、命を削るようなことをしなければ、毎日を生きられないのか?

僕はまた、光の淵を、見つけてしまったようです。


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写真 飛行機翼 ついにこの日が来た。椎間板ヘルニアの地獄の日々からは、こんな日が来ることは到底考えられなかった。この日が来るまで、なんと暗く、なんと心細い道であったことか。僕は長くて辛くて苦しかった病の日々を乗り越えて再び、この旅から、写真家への挑戦をはじめることになった。今まで支えてくれた多くの関係者に心からの感謝の意を込め、この日記を捧げたい。
 さていよいよ出発の日。昼の12時頃、成田空港へ到着。腰を痛めるまでなら、ものすごい量の撮影機材、キャンプ資材を、自力で担ぎつつ引きずりつつ空港へ出かけていた。しかし今回は、癒えきってない腰の不安が大きいため、初めて空港への宅配便を使った。うーん、とってもラク!自力で持っていく荷物は、最低限の撮影機材とフィルムのみ。とはいっても、その「最低限の」機材は15kgはあるし、フィルムも200本くらいある。今までがいかに常軌を逸した旅であったか、推して知るべしだろうか。。。
 さて、空港に着くと、例によって手荷物検査である。136リットル・30kg超の大容量キャンプ資材バック2個、撮影機材ザック1個、200本のフィルムバック1個、その他荷物1個、そして現地の友人に土産の日本酒1本。これだけの大荷物。いつも空港でしつこい検査を受ける。時間にして1時間は余計に見ないといけない。何しろこの大荷物を全部ひっくり返して不審物検査を受けるのだから。あのテロ事件以降、毎回うんざりしてきたが、最近はもう慣れた。何を言っても、飛行機に乗れなければ旅は始まらないからなぁ。。。
 自分のストレスを少しでも減らすように、最近はそこの職員とよく話すようにしている。職員が調べてるストーブで何をするのか?これからどういった旅をするのか?などなど。そうすると意外に話が弾んで面白いときがある。何事も自分の気持ちの持ち方次第なのだろうか?そんな風に、普段では気付かないことに気付かされるのも、旅の効用のひとつなのだろう。
 さてさて、ようやくの思いでチケットを手に入れ、荷物を預け、(といっても撮影機材とフィルムは絶対他人には預けない!写真家にとって機材は、命の次に、場合によっては同等以上に大切なものなのだから!何を言われても絶対手荷物で機内持ち込み!)通関し、機内へ。僕は離陸時の加速感と、空に舞い上がる景色の移り変わりが大好きで、いつも窓際をチョイスするのだけれど、最近はこの通関にくたびれてしまって、座席に着くなり寝入ってしまうことが多い。これでは折角窓際をチョイスした意味がないのだけれど、この日もやはり座席につくと寝入ってしまった。ふと起きるともう飛行機は上空で安定飛行をしており、やはり「しまった!」とがっかりしたのである。
 眼を覚ますと、隣には中国人らしき3人家族が並んでいた。その人たちは全く英語を解せず、スッチーが何を言っても分からないようだった。僕は見るに見かねて「Perhaps they can't speak English not at all...」とスッチーに言ったら、彼女は思いっきり呆れた顔をし、挙句の果てには無言で実力行使のようにテーブルを引き出し、ドン!と無造作にスナックを置いていった。
 。。。。。。
 おいおい、そりゃあねえだろ!
 僕はいたく憤慨した。英語が分からないと人間扱いされないか!英語がそんなにエライ言葉なのか!なんだその見下した態度は!可哀想な中国人らしき?家族(中国人と推測されたが、ちょっと言葉が違うような感じもした)に、身振り手振りでいろいろ教えてやるのが精一杯だった。このスッチーの理不尽な扱いに、気の弱そうな中国人に代わって人間として断固抗議できなかった自分が情けない。
 シアトル到着。またここで、路頭に迷う人たち発見。今度は日本人。フェアバンクス行きの飛行機乗換えが分からないと困った様子。ここでも放置できないので、声を掛けてエスコートしてあげた。いたく感激され、こちらも感謝。別便ではあったが、出発まで雑談。なんか俺、添乗員みたいになってきたな。。。
 端から見れば、こんなことをしてる僕はとてもこれから生死を賭けた撮影に臨む人間には思えなかっただろう。(ちなみにこの人たちとは、2日後に、腰の養生のために取った宿で再開することになる。)だが裏を返せば、それだけ自分も、いつになく極度の不安を抱いていたのかも知れない。
 さて困った人たち?と別れ、ひとり乗り込んだアラスカ航空でフェアバンクス国際空港に到着。機体トラブルで1時間遅れたが、まあアラスカはそんなもん。しかし2年ぶりのアラスカ。いろんな気持ちが入り混じって、うまく表現できない。ただ気持ちが異様に高ぶっていたのは確かだった。
写真 レンタカー  早速レンタカーを借りる。デカイ4駆。これで一番小さいという。まいいや。ツルツルの雪道だから、逆にありがたいのかも?お久しぶりの左ハンドル。ちょっと戸惑う。そのうち慣れるよねえ?と自分言い聞かせる。
 そのまま市内へ直行。今晩は長旅で疲労した腰のために、ホテルに泊まってゆっくり養生だ。なーんて計画だったのに、早速夜中にオーロラ目当てにドライブしてしまった。結局雪混じりでオーロラは全く見れず、4時間程度でホテルへ帰還したのだが、全く懲りない自分に呆れた。
 ツルツルの真っ暗な夜道を4駆で怪走?してホテルに帰ると、疲れて倒れるようにすぐ寝てしまった。
2006年2月24日 (第2日目)
 数時間の睡眠。朝起きると、腰の痛みは無かった。かなり安心したが、今思うと実は「戦闘モード」に入ってしまっただけで、ただ感じないようにしていただけのかもしれなかった。
 さて、これから3日間は、フェアバンクス郊外のロッジに宿泊する。いきなりルース氷河に行くのは、腰に爆弾を抱えた僕にはかなり不安があったので、「様子見」のために、3日間フェアバンクス郊外滞在を選んだのだ。
 起床後にフロを済ませ、早速宿を出る。普段テント住まいの僕には、ホテルは快適すぎてなんだか居心地悪かったなあ。。。近くのスーパーで買出し。宿では基本的に自炊したいので、野菜類を中心に食材を買い込む。うまそうな寿司があったので、景気付けに豪勢にしようと思い切って買った。まずは十分な休養、栄養だよね、と、不安を打ち消すようにかなり買い込んだ。
写真 左ハンドル  ちょっと慣れてきた左ハンドルのレンタカー操作を確かめつつ、フェアバンクスの町を出る。途中で給油し、満タンに。(こちらではクレジットカードでセルフ式が一般的である。)これで3日間は給油しなくていいだろう。目的地までは2時間半くらいだろうか?信号もない寒々とした道をひたすら行く。標識が小さいので見逃さないように注意しながら、至極シンプルな地図を頼りに雪道を走る。
 郊外に出てしばらく行くと、オーロラ観測に良さそうな丘を発見。ちょっと登ってみるか?スノーブーツ、スノーシューを着用し、膝まで埋まる深雪を調子よく登ってみる。しばらく行くと、大きな足跡を発見。とても大きい。僕と比べるとまるで大人と子供だ。アメリカ人は足がでかいなあ、何センチあるんだ一体?なんて考えつつ、その足跡を追ってみる。すると途中で、大きなウチを発見!おいおい、こんなところで野か?アメリカ人はすんごい人種だな、ちょっとは我慢しろよ!寒くないのかこんなところで!とかひとりで想像力を働かせる。その足跡はどんどんどんどん上に登っていて、もはや追いきれない。道路から100メートルくらいの高さまで登っただろうか。時間もないので諦めて下る。
 と、その途中。別方向から来ていた足跡をよく眺めてみる。あれ?足跡の先端が二つに割れている。これ、人間の足跡じゃない!そうでした。これはなんと、ムースの足跡だったのです!ボケボケの自分に苦笑するとともに、アメリカ人に難癖?をつけていた自分が恥ずかしくなった。
 そんなこんなで車に戻り、車道に戻ろうとした。と!そのとき。。。
 僕は絶対してはいけないミスを犯した。バックでいい加減に戻ったがため、車道を踏み外し、脱輪してしまったのだ!左前輪のみの脱輪だったが、どうにも雪が深くて脱出できない。ルース氷河でデビューするはずだった鋼鉄製のスコップが、こんなところでデビューするはめになってしまった。しかしそれでも脱出できず、掘ること1時間。こんなところで腰を酷使するとは思わなかった。腰が痛くて泣きそうになる。それでも脱出できず、かなりあせってきた。あたりは誰も走らない道。一台の車も通らない。なんということだ!駄目だこりゃ。。。と、そのとき。。。
 遠くからエンジンの音が!車道で待ち構えた。一台のピックアップトラックをが現われた。僕は必死に手を振った。車が止まる。兄ちゃん二人。ぷりーずへるぷみー!である。さっきまでアメリカ人に言いたい放題であったのに、調子よく助けを求める自分。穴があったら入りたいくらい情けないぞ、俺!しかしあんちゃん二人、かなりいい人っぽくて、おまけに幸いにも牽引用ロープを持っていた!
 それから10分。あんちゃんたちに牽引してもらって無事に車道に戻れた。んーー、助かった!!!そーだ、さんきゅー!だけじゃまずいだろ?チップか?いやそれもなんだか感謝が伝わりそうにないぞ!そーだ!
 と思った僕の手には、あの豪勢な寿司があった。「あんちゃんありがと。これ、じゃぱにーずうまいメシだから、食ってよ。ホントありがと!」にこやかに差し出す。あんちゃん二人は、思わぬご馳走をゲットし、喜色満面。んー、良かった。人助けをしたら、きっといいことがあるって思ってもらえたかな?僕も満足。っていうか、折角楽しみにしてた豪勢な寿司だったので、実はちょっと、いや、正直に言えばかなり残念ではあったのだけど。。。(苦笑)いろんな意味で、まだまだ人間的に未熟かつ身勝手すぎる自分が可笑しかった。
 やれやれ。。。気を取り直して再出発。
 「あそこは随分滑るよ。本当に気を付けたほうがいいよ。」という峠を難なく越える。北国出身者ではないけれど、北海道をはじめとした厳冬期の道路を運転し尽くした経験が生きる。やはり積み重ねて力になるものは、絶対必要だと思った。
 やがて道路っ端に星条旗たなびくロッジが見えてきた。車を止め、中に入る。と!電飾賑やかな酒場!なんでこんな何も無いところに、こんな派手な酒場が?という感じ。見渡す限り一軒の家もないじゃん?(後で知ったのだが、ここはずーっと遠くから車で乗り付けて、酒を肴にしばしの歓談を楽しむ地元民御用達酒場らしかった。)
 カウンターの向こうのおばさんに話しかける。怪しげだが、どうやらここで間違いないらしい。電飾まぶしい酒場奥の、薄暗い通路を通って部屋に案内される。一番奥。なかなかいい場所。向かいのドアが開いている。チラッと覗く。と!シアトル空港で路頭に迷っていたあの5名の日本人であった。彼らはツアーのオプションとして、フェアバンクス空港から送迎つきでこんな遠くまでやってきたらしい。こんなひなびた一軒宿(だけどなぜかゴージャス!)に来るなんて、最近のツアーオプションはすごいね、と妙に感心した。
 「やー!おおのさんようこそ!」特製ワインを注がれて、いきなりの歓待。すでに酒宴に突入していた面々は、どの顔にも笑顔に溢れている。本当に心地よい再会だ。おじさんはハグハグまでしてくれるし。んー、うれしい。本当にうれしい。僕は人嫌いではあるけれども、こういうことがあると、人との出会いも捨てたもんじゃないと思えてくる。
 しかし聞けば、昨晩は盛大なオーロラを見たとのこと。赤い色まで見た!と言う。あれ?僕は昨晩雪に降られたのに?峠ひとつ超えると天候がまったく違うことは良くあるけれど、ちょっと悔しい。。。おまけにデジカメで写した赤いオーロラまで見せてくれて、「今晩はもっといいかもよ〜。」なんて赤ら顔で盛り上がる面々。見上げれば、たしかに空は青空である。
 写真家としてここまで言われて、「そーですねー。」なんて酒飲んでる場合でもないので、いい加減なところで失礼して、夜の撮影に備えることにした。装備を確認し、カメラ、レンズのチェック。酒を飲んだので、ピントがちょっとつかみづらい。普段なら絶対にしないことだけど、今日は気持ちよい再会に少し気を許してしまった。。。そこをなんとか、調整も完了。続いて辺りを徘徊し、風景的に良さ気なところを探す。ちょっといいかも?という林を発見。よしよし。さて宿に戻るか。と。。。
写真 フェアバンクス記念写真  夕方近く、雲が出てきた。蒼い雲と夕陽のコントラストに感激する面々。彼らに記念撮影をしてあげる。雲間に夕陽が差し込んでコントラストが高まる瞬間を狙い、にこやかな笑顔の5人組を激写?これって、かなりいい写真じゃないの?んー、高いぞ!この写真は(^^)ところがその雲は、あっという間に空を覆ってしまった。なんでかな。。。
 しかし可能性は捨てたくない。「一緒に食事でも」という団体さんの好意を辞退し、早めに寝る。わずかに仮眠して、夜9時起床。空は曇っている。なんでかな。。。ようやくヘルニアの悪夢を超えてのアラスカだ。あきらめたくはない。防寒装備を固め、車で出発。10分ほど走り、さらに10分ほど歩き、暗闇にひとり立つ。
 夜10時。雪が降ってきた。午前2時まで粘る。しかし雪。。。もう自分も機材も真っ白。駄目だった。オーロラは出なかった。天はなかなか微笑んでくれないものである。かなり落ち込んだ。しょげて帰ると午前3時前。
 例の5人組みは、オーロラを早々に諦め、飲み明かしていた。んー、人生こんなものか。僕の場合はいつもこんな感じだ。いつもチャンスを逃すよな、なんか間抜けな人生だよな、とさらに落ち込む。しかし!「まあまあ、中に入りなさいよ!」とあの笑顔。悔しかった僕は、どさくさに紛れて結構飲んでしまった。
 天が微笑む代わりに、人が微笑む。そんな夜もあっていいか?振り帰ってみれば、最近、いやかなり前から、僕にはこんなことはなかった。自分に、世間に、嫌気が差して下を向いて歩いてばかりだったから。そんな僕に上を向かせてくれた困った人たちの?素晴らしい笑顔。僕は数年ぶりに気持ちよく酔っ払い、腰のことも思いっきり忘れ、酔いつぶれて寝入った。
2006年2月25日 (第3日目)
 朝起きると、外はまだ雪だった。幸いにも腰の痛みは少しで、ほとんど気にならない。また寝る。起きる。また雪。そんなことを繰り返して昼ごろ。ときおり陽が差し込むようになる。おおっ!と思って起きるとまた雪。少しイライラする。
 あの5人組が帰る時刻となる。2泊で盛大なオーロラを見れたなんてかなりラッキーだ。これからの旅路も、この人たちにとって、イイことがありますように!また路頭に迷うことがありませんように!路頭に迷ったら、僕の代わりに誰かに助けてもらえますように!と、心から願った。別れを惜しみつつ、またまたハグハグしつつ、見送る。宿には僕だけが残った。少し、いや正直かなり寂しくなった。雪がだんだん強くなり、夜まで降り続く。あきらめたくない僕は、夜に入っても1時間ごとに空を空を見るがやっぱり雪。自分の想いとは裏腹に、雪は降り続くのだった。
2006年2月26日 (第4日目)
 昨晩は思い切って諦めて、夜半前に寝てしまった。疲れを取るために判断したことだが、これは正解だった。朝起きると、雪はまだしんしんと降り続いていた。今日は寝すぎたのか、少し腰が痛い。しかし時差ぼけなどは全く無く、体調は良いと言える。あとは天候だけか?どこまで気持ちが持つか、いささか心配である。
 うっぷん晴らしにドライブに出る。雪の中、30マイル(約50キロ)走る。ときおり吹雪になり、視界はあまりない。ホワイトアウト(吹雪のため視界が真っ白になって物体との距離感つかめなくなる)。当然こんな日に誰も走っていやしない。
 こんな荒れた天候が大好きな僕は、車を降りて白い風景を撮る。腰のことはすっかり忘れて、腰まで深い雪にはまりつつ、フィルム1本撮影。こんなことをやって大丈夫なのか?と思いつつもついやってしまう。やれてしまうのだから、身体的にはかなり調子良好なんだろうけど、悪い癖だ。
 しばらく行くと吹雪が激しくなってきた。帰れなくなるかもしれないので引き返す。帰途は大吹雪になった。視界はほとんどない。ハンドルをしっかり握り、ロッジへ帰還。その先、フェアバンクス方面は除雪もされていないようで、すでに車が通行できる状態ではないほどの積雪だ。道路上でも50cmは積もっている。なんだかオーロラの写真どころではなくなってきた。大変な大雪だ。僕の想いとは相反して、天候はどんどん悪化して行く。
写真 ロッジの部屋  ロッジの部屋で、フテ寝を図る。しかしなんだかいろいろなことが思い浮かんできて眠れない。降り続く雪。焦る心。間もなくフェアバンクスで最後の夜を迎えようとしていた。 
2006年2月27日 (第5日目)
写真 フェアバンクス撮影 それでもあきらめたくない僕は、夜半まで粘っていた。午前2時。雪は止み、星空が見えてくる。これはチャンス!とばかりに急いで装備を固め、車で出かける。再び暗闇に到着。しかし晴れているのにオーロラは一向に出てこない。んー。。。晴れ間は1時間と続かず、再び雲が広がり出し、やがて雪が。なんてこった。こんなはずではなかったのに。明け方4時半まで粘るも、雪は止まず、撤退する。
 2時間ほど仮眠して、宿を出る。さすがに昨夕除雪車が入って、フェアバンクス方面への道路も通行可能となっていた。身支度を整え、出発。と、なぜか晴れてきた!なんでかな。。。フェアバンクス空港へ向かう道。冷え冷えとした空に、オレンジ色の太陽が昇る。美しい。久しぶりの太陽だ。写真に収めたい!しかし生憎寄り道している時間がない。こんなときに限って、こんな風景。僕の人生とは、やっぱりこんなもんか?と、またもや激しく落ち込んだ。
 かくしてフェアバンクスでの「試運転」という計画は大失敗に終わり、オーロラの写真どころか、オーロラさえ全く見れないという徒労に終わった。腰の状態が悪くないことだけが、幸いだ。
 4日間の滞在で、フィルムわずか1本、しかもオーロラは無し!という結果にがっくりの心情を抱えつつ、いよいよアンカレジ、タルキートナ経由でルース氷河へ向かう。あるとき嫌なことがたくさんあったとしても、幸運にも、時は止まることはない。旅の核心部へ、いよいよ時は迫ってきていた。
2006年3月1日 (第6日目)
 

アンカレジで写真家松本茂高氏と合流。しばしの休養を取り、たっぷりの栄養を補給し、食料等資材を買い込んだ。いよいよルース氷河へ向かう日。早朝バスでタルキートナへ入りし、セスナ飛行場へ向かう。「私、命賭けても自己責任は承知してます」みたいな書類に署名し、出発を待つ。
写真 氷河を進むセスナ機  
(氷壁臨む氷河をすり抜ける我がセスナ機)

 快晴。昼ごろ、セスナへ乗り込む。いよいよの出発。凍結した滑走路をいとも簡単に滑空し、大空へ舞い上がる。セスナ機独特のふらふらした不安定な離陸に、いよいよの感が高まる。大空へ。雪の山々へ。そして氷河の谷へ。北米大陸最高峰のマッキンリーを間近に臨む大氷河へ、。僕らを乗せたセスナ機は、光り輝く白銀の峰々をすり抜けて、ルース氷河へランディングした。セスナが帰っていくと、もうこの地上には2人しかいなくなった。他に生物はいない。何をどうあがいても、どんなに極寒に震えても、あと11日間は、「二人だけの世界」だ。
 それにしても素晴らしいロケーション。ルース氷河は、周囲を山に囲まれた盆地のようになっていて、まるで劇場のようだ。ここではどんな大自然のドラマが上演されるのだろうか?大量の資材を降ろす。気温-20度くらい。深い雪。スノーシュー(西洋カンジキ)なしでは、とても歩けない。資材をソリに載せ、小高い丘の上へ荷揚げする。腰が癒えてない僕は、松本さんにほとんど荷揚げしてもらうという情けない状況。彼の親切には頭が上がらない。
写真 テント設営
(僕のテント。まだ暴風壁工作中。)

 テント設営。これから少なくとも11日間は、極北厳寒の地でテント生活だ。ひとつのテントに同居すると暖かいのだが、二人別々のテントを張ることにした。お互い個性ある写真家なのだから、チャンスと感じる瞬間は違うだろう。それゆえ、距離を置いた二つのテント設営は、当然の選択だった。
 地形、風の方向などから適した場所を見つけ、十分に地ならしをする。テントの四方に雪で防風壁をつくる。雪面を50cmほど掘り下げてペグ(テントを固定する金具)雪中深く打ち込む。陽が落ちないうちに!と設営を急ぐ。-50度耐寒シュラフ(寝袋)を放り込む。とりあえず凍死しないだけの装備を確認。もう夕方6時だ。陽が落ちると、急激に気温が下がってきた。寒い。ガソリンバーナー(日本で主流の気体ガス方式は、超低温環境下では気化しないため使用できない。ガソリンバーナー以外は、極地では使用できない。)で雪を溶かし、水を作り、お湯にして、ご飯と味噌汁だけの簡単な夕食を摂る。そうこうするうちに雲が広がってきて、怪しい空になってきた。しかも寒い!本当に寒い!真冬のフェアバンクスの寒さどころではない。-50度耐寒ダウンジャケット、-100度耐寒シューズを持ってきて正解だ。最初は-25度耐寒服で済ませようとしたが、とんでもないことだ。
 やがて待望の夜。しかし星空は雲間にわずかに覗く程度で、またもやオーロラは見れない。「大野さん、オーロラキラー?」松本さんに言われた言葉は、本当かも?と少し不安になる。夜10時くらいからオーロラを待つも、午前3時、降雪にて撤退。悪運をルース氷河にまで持ち込んだようで、松本さんに悪いことしたな。。。と少し弱気になっていた。

2006年3月2日 (第7日目)
 午前5時、わずか1時間ちょっとの仮眠を取り、起床。テント設営が響いたか、腰が痛い。あまりにも寒いこともあるに違いない。無理矢理テントを出て、朝陽を狙うが、これも雲が多く、冴えない写真しか撮れない。
 だがもう嘆いている暇はなかった。今日中に、これからどんな風雪が来ても、避難できる場所を作らなければならない。雪洞だ。ところが我々に、雪山の専門的知識があるわけではなかった。雪まったく湿り気がなく、まさしくパウダースノー状態。どうするか?考えた挙句、半地下式の雪洞とした。雪面を掘る。ひたすら掘る。腰が痛くてたまらなくなってきた。しかし掘るしかない。ここで掘らなければ、腰どころではなく、命を落としてしまう。出来るだけ腰を回転させないように手足の筋力を最大限に使った。数時間後、とりあえず完成。大汗だ。腰は激しく痛むが、命を守るものができたことで一安心。しかしこのとき、僕は絶対犯してはならない失敗を犯した。
写真 凍る食料バック  
(凍る食料バック)

 あまりにも寒いがゆえ、-50度耐寒ダウンジャケットを着たまま作業してしまったのだ。ダウンは大量の汗を吸い、濡れてしまった。厳寒の環境下で、こうするとどうなるか?そう、汗は作業終了時に瞬時に凍り、全身を氷漬けにしてしまったのだ。寒い。寒い。死んでしまう!大急ぎでテントに戻りダウンを脱ぎ去り、下着から全部着替えて、万が一のために用意した予備着を全て着込む。震えが止まらない。全く無知かつ馬鹿げたことをしでかしたもんだ。激しい自己嫌悪。
 天候も良くならない。夜になって、わずかな星が垣間見える程度。20時、22時、24時、2時、4時。2時間おきにテントを空けて夜空を偵察するも、一向に晴れない。4時に起きたのを最後にあきらめ、1時間ほどの「睡眠」を取った。
2006年3月3日 (第8日目)
捨身氷河を望んで
 (氷河を臨んで)

 5時半起床。1時間前に寝たばかりで、寝た瞬間に目覚めたような気がする。朝焼けのマッキンリーを狙うも、降雪にて失敗。腰が異常に痛い。動けない。。。昨日の雪洞づくりがこたえたか。しかしもう、誰も助けてはくれない。松本さんにこれ以上迷惑をかけられない。黙って耐えるしかない。
  雪洞にて朝飯を作る。やはり快適だ。腰は犠牲にしたが、我が生命死守のために作って正解。朝飯後、山に日輪が架かる。まさしく極地の光景(リンク先工事中)だ。あわてて機材を準備し、撮影。アラスカ入りして一週間して、はじめて心震える光景を写真に収めた。少し安心する。
2006年3月4日 (第9日目)
 夜12時起床。快晴!星が瞬いている!夕方より曇り空だったため、また駄目か。。。と思っていたが、念のため2時間おきに偵察していた。今夜こそは!という気合十分。しかし快晴にもかかわらず、朝4時すぎまで粘るも、極薄いオーロラが短時間現われたのみ。んー。。。なんでかな。。。
写真 凍死したレンズ  
 (凍死したレンズ)
 
 あまりの寒さに、レンズが死んだ。レンズが氷漬けになってしまった。氷を落とそうとしても、触れる指の体温でさらに凍りつき、余計に悪化。どうにもならない。
2006年3月5日 (第10日目)
 朝6時起床。今夜も1時間の仮眠のみ。ルース氷河入りしてから、毎晩多くても3時間しか寝ていない。ほとんど1時間だ。なのに全然眠くない。いくら精神状態が高揚しているとはいえ、全く異常だ。
 昨晩レンズが1本死んだが、今朝は尋常ではない寒さだ。昨夕にはすでに-30度以下になっていた(温度計は-30度までしか測れなかった)ので、それよりはるかに低温なのだろう。テントの外には絶対出たくない!出たら死んでしまう!それほど寒かった。しかしここは根性決めて、テントを飛び出る。薄明かりの空に、マッキンリーの頂上を見る。見ると言っても、眼球が凍っていて、よく見えない。だが凝視した先には、尖った頂上が確かに見える。おおっ!今朝はいけるかもしれない!しかし。。。
 夜明け前、ちょうど30分くらい前に、薄雲が広がりだした。なんでかな?しかも小雪がちらついてきた。んー。。。またしても。。。
写真 凍死したカメラ  
 (冷凍どころではない凍死カメラ)

 あまりの寒さに、次の犠牲者が出た。カメラ一台、凍死した。するとつぎつぎにカメラ、レンズが氷漬けになっていき、とうとう全カメラ(3台)、全レンズ(7本)が凍死した。次は俺か???まるで脳みそまで凍ってしまうような寒さ。機材が全滅した以上、今朝も撤退するほかはなかった。
 疲労困憊してテントに戻る。朝飯後、カメラレンズを溶かす作業。テントに篭り、体温で溶かす。ということは、カメラレンズが温まる一方、体は冷えてしまう。もう凍死しそうだ。思いついた方法は、ガソリンバーナーで無理矢理ランタンを温め、着火して暖を取ること。カメラレンズには急激な温度上昇は致命的なため、細々と燃やしてわずかな暖を取る。3時間かけて、なんとか機材を溶かした。
 腰の痛みは激しく、起き上がるのも困難になってきた。無理してここまで来て、無茶なことをしているのは重々承知だが、やはり体の自由がきかないのは辛い。肉体的にまったく疲労困憊だ。
 天気は小雪。視界はあまりない。精神的にも滅入ってしまう。午後になって、周囲の山々の雪崩が頻発。爆弾が落とされたような轟音が鳴り響く。視界がないだけに、テントを直撃するのではないかと不安になる。さらに悪いこと重なるものだ。
写真 か細い炊事ストーブ  
 (か細い炊事ストーブ)

 「生命の水」作りに欠かせないガソリンストーブが故障したのだ。正常燃焼しなくなってしまった。どうやら寒すぎて、ガソリンも凍ってしまうようだ。分解し、サバイバルキットでぶっ叩き、氷を取り除く。それでも液体のまま気化せず、30cmもの火柱をあげて爆発するように燃焼してしまう。これでは鍋ごと燃えて丸焼きだ。とても炊事どころではない。鉄工具で思いっきりぶったたいて、やっと正常な燃焼状態にもっていくのにかなりの時間と手間隙苦労がかかってしまうようになった。こんなことにならないように、出発前によく点検整備してきたのに。
 ストーブは1台しかない。もしストーブが全く燃焼しなくなったら、死は確実である。指定した日までセスナ機は現われないのだから。ほっと一安心できるはずの食事の時間でさえ、もはや「サバイバルの時間」となりつつあった。
 いったいこの先どうなるのか。寒すぎてどうにもならない「衣」。ストーブがいつ使えなくなるか分からない「食」。雪崩とブリザードにおびえる「住」。生命維持に最も重要な「衣食住」は、あまりにも危険すぎるレベルにあった。
 18時頃、三日月が見えてきた。今夜こそ!だ。夜10時に必死の思いでテントを出る。ややもすると、待望のオーロラ出現!一瞬、暗黒の空に明かりが灯ったかのように光輝いた!あわててカメラをセット。ファインダーで構図を見る。しかし。。。オーロラは一瞬で消えていた。自分が見たのは幻か?極限状況で幻覚を見たのか?そんなはずはない。確かに明るい光を見たはずだ。こんなオーロラもあるのか。。。以後午前4時まで粘るも、オーロラは全く現われなかった。
 一体僕は何をしているのか?なんでこんな苦行をしているのか?まったく分からなくなってきた。泣きたい。だけど、泣いても涙が凍ってさらに冷えるだけだろう。もう何もできない。僕の精神状態は追い詰められていた。
  オーロラも、朝焼けも、夕焼けも。いったいどこまで頑張れば、報われるのか?もうこれ以上できやしないほど、極限状況を耐えているのに。不安と恐怖、自己嫌悪、それにこの程度で泣きを入れてるのか?という情けなさがこみ上げてくる。自分がつくづく嫌いになる。神様はどこかでご覧になっているのだろうけれど、なかなか微笑んでくれない日々に、心身ともに崩折れてしまいそうだった。
2006年3月6日 (第11日目)
 テントに戻り、再び1時間程度の睡眠で5時半起床。寝た気がしない。今朝も強烈な酷寒。しかしここも気合でテントを出発。と!天空に薄いオーロラが!ちきしょう!わずか1時間の仮眠の間に現われたのか!悔しいなんてもんじゃない。すぐにカメラをセット。撮影しようとしたら、すぐに消えてしまった。やがて夜明け。雲が沸いてきた。これまた失敗。なんという神の思し召しだろうか。。。 
 昼間は雪洞の補修等をして過ごす。そしてまた夜。天候は快晴ではないが、悪くない。再び今夜こそ!だ。気合を入れてテントを出る。寒い。寒い。酷寒。-30度を下回った夜は何日目だろうか?精神力に頼る以外では、もはやこの場所には立てない。今宵の寒さも、-50度耐寒ダウンジャケットを突き破って来る。
 そして午前3時。待望のオーロラが現われた!薄い緑色の帯が現われ、どんどん広がっていく。カメラレンズをセット。絞り、シャッタースピード、ピントを慎重に確認。寒さで頭がクラクラしている。「冷静に!冷静に!」はやる気持ちを抑えつつ、撮影を続ける。フィルム何本か撮影すると、オーロラは音もなく消えていった。
 待望のオーロラ出現。もっと感激しまくって失敗するかと思ったが、意外と冷静だった。これまで耐えてきた精神力のおかげか?はたまた感激するだけの余力がなかったのか、考えようとしたが、もはやそういう余力こそなく、どうでもいいことは考えられなかった。撮影が終わると、夜明けまで極限の寒さに耐えた疲労感が、嵐のように押し寄せてきた。
写真 再び凍死したカメラ

 (再び凍死したカメラ。。。)
2006年3月7日 (第12日目)
 徹夜で夜明けの撮影に突入する。一度テントまで戻り、フィルムと電池を補充。あまりの寒さに、テントに一度でも入ったら、弱音を吐いてもう出て来れないと思った。だからスノーシューを脱ぐことなく、上半身だけ突っ込んで猛烈な勢いでトンボ帰り。テントに頭を突っ込んだ時間は、ほんの1分ほど。暖かそうなシュラフなど、出来るだけテントの中を見ないようにして、再び撮影地点まで息を切らせて丘を登った。
 厳寒の地で呼吸を激しく行うと、気管と肺が凍ってしまう恐れが大きい。僕は顔を覆うフルフェイスマスクで呼吸困難に陥りつつ、肩で息をしつつ、深い雪面を歩き続けた。著しい酸素欠乏。苦しくて途中何度も立ち止まる。撮影地点到着。やがて朝陽は出てきたが、霞が多くイマイチ。頑張ってもいいことは続かないものか?ムシが良すぎるか?
 徹夜で耐えた心身と機材は再び凍りついた。朝陽が完全に昇りきる。雲はあるが青空が覗き、あのマッキンリーも見える。僕はこのとき、不意に強烈なめまいを覚えた。
 かといって寝入る時間があるわけでもなく、昼間は機材の再点検、雪洞の補修、そして撮影に勤しんだ。そしてまたあっと言う間に夜が来て、撮影へのチャンレンジが始まった。
写真 怪しげな天候  
 (怪しげな天候)

 快晴ではないが、空は晴れていた。今宵はオーロラが出るだろうか?意を決してテントを出る。毎晩のこととなった撮影場所へ行く。かなり気が重い。夜11時。晴れてはいるのに、一向にオーロラの出る気配はない。無風。無音。辺りは静寂に包まれ、まったく動きのない世界だ。真っ暗で寂しい場所へ来ると、宇宙人でも出てくるのではないか?と本気で怯えてしまうこともあるが、こんなところには宇宙人さえ来ないだろうな、とくだらないことを考えて気を紛らわせる。その時だ。
 真北の方向から、「ふっ」っと、ほんの一瞬、優しく息をかけられた。誰かがそばで、そっと息を吹きかけたように。しかし誰かがいるわけではない。宇宙人でも出てこない場所なんだから。あまりに疲れていたので、幻覚でも起こしたのかと思った。しかしそれは幻覚ではなく、悪魔の笑い声だと気付くのに時間はかからなかった。
 ブリザード(暴風雪)の始まりである。次第に北風が強くなってくる。寒い。-50度耐寒ダウンジャケットで「寒い!」と感じるなんて、-35度の厳冬期北海道でもまったく感じたことはなかった。それなのに、ここでは何度目か?ほんとうに恐ろしい場所だ。
 風に乗って、小雪が吹き付けるようになってくる。酷寒の上に酷寒!午前2時。カメラレンズが凍りつき、再び凍死。もはやレンズ交換さえできない。さらに周りの景色も見えなくなる。天候の快復はあり得ないだろう。もう危ない。テントへ戻れなくなる。自分が凍死してしまう。やむなく撤退する。帰路はすでに、深雪に残した自分の足跡さえ消えかけていて、もう少し遅くなったら本当に危ないところであった。ゴーグル越しに見る、暗黒に吹き付ける白い悪魔は、ブリザードそのものだった。風雪にたわむテントへ戻る。中に入る。僕はそのまま気絶するように眠ってしまった。
2006年3月8日 (第13日目)
 疲労の極みだ。しかし今夜も意を決して撮影へ。その根性に反して、またもやのブリザード。レンズが凍りつく。明け方まで粘るも、撤退。。。
 僕は今回の旅に向けて、万全の装備で臨んだはずだった。-100度耐寒ブーツ、-50度耐寒シュラフ、ダウンジャケット、パンツ。その他諸々の超厳冬期装備。現地入りしてからも、毎日毎日、凍傷予防のために手足を入念にマッサージ。さらに凍傷の薬を塗りたくって予防。
写真 テント内部  
 (暖かな?テント内部。たぶん-20度くらいのとき。)

 だが今や、僕の体は各所で悲鳴をあげていた。腰の痛みは限界を超え、コルセットをきつく締めてようやく体を支えているだけだった。一度安楽な寝袋に横たわると、もう一度起き上がるのは非常に困難な状態になっていた。さらに重大なことに、僕の手は、僕の足は、凍傷になりかかっていた。冷たくなって感覚を失い、温めようとすれば汗をかき、汗をかけば、また冷えていき。。。これの繰り返し。手先足先は鋭い痛みを超え、全感覚麻痺の一歩手前まで来ている。きしむ身体、日々感覚を失っていく手足。
 さらにじわじわと感覚を失っていくのは、肉体だけでなはなかった。精神的にも「真綿で首を絞められるように」追い詰められていくのがよく分かった。満足な写真が撮れないことだけではなく、満足に生きていけない自分の根本的弱さに、否応なく対峙させられていた。極限状況で戦うには、僕は肉体的にも、精神的にも、軟弱すぎるのではないか?自分は所詮、どこの世界でも生きていけない人間なのではないか?自信喪失感が、鳴り止まない雪崩のように押し寄せてきていた。
2006年3月9日 (第14日目)
写真 マイナス50度耐寒装備 (-50度耐寒装備)

 それでも僕は、また1時間ほどの仮眠で朝5時に起床した。ここで弱音を吐いて、諦めるわけにはいかない。ここで負け犬になるわけにはいかない。腰を痛め、屈辱にまみれた2年間。僕は決して忘れない。僕には獲物を狙う獣のような飢餓感があった。
 テントの内と外では10度以上は違うだろう。だがテント内でさえ、今朝も温度計は-30度を振り切っている。昨晩はダウンジャケットを着込んだまま気絶してしまったのでそのまま表へ出ればいいのだけれど、気持ち的に出ることができない。大自然の圧倒的な力を前に、恐怖とか、そういうった感情を超えた物凄い「畏れ」を感じる。とんでもなく小さな自分を感じ、逃げ出したくなる。しかし逃げる場所があるわけじゃない。隠れる場所があるわけじゃない。やるしかない。僕は写真家だ。ここで引くわけにはいかないんだ。テントを出て、勝負するしかないんだ。
 幸いにも、ブリザードは止んでいた。テントを出る。撮影地点へ。朝焼けの雲。焼けるマッキンリー。桃色に染まったかと思われた頂上は、間もなく黄金の輝きとなる。なんという輝きだ。天空を突き破る黄金。ただただ、美しいとしか言いようがない。この景色を形容するのには、僕の貧弱な国語力ではまったく不可能だ。
 ところがいいことは長くは続かない。すぐにまた、あの北風が吹き始めた。強風でまともに立っていられない。全身で三脚を必死に抑える。雪は伴っていないため、暴風の中、撮影を続ける。気がつけば昼になっていた。そして午後2時頃。暴風はさらに強くなり、雪を伴ってブリザードへ。レンズ交換ができなくなった。まともに立っていられない。撮影続行不能。撤退。 
写真 テント雪崩  
 (右下隅に小さく見えるのが僕のテント。背後の山から雪崩が頻発した。)

 なんとかテントへ戻ると、テントが傾いているではないか!あれだけ深くペグを打ち込み、あれだけ固めたのに!危ない。テントが吹き飛ばされてしまう。またもや死がちらつく。あわてて機材を背負ったままテントに潜り込む。ブリザードに襲われたテントは風雪で押しつぶされ、スペースが半分ほどになった。かなり傾いている。危ない。風上で押されているテントの内面に身体をもたれかけて、必死で支える。全身で支えても、もはや自然の猛威には太刀打ちできるわけがない。背筋を目いっぱい使って支える。と。。。僕はそのまま、またもや気絶してしまった。
 何時頃だったか、起きた。というか、まだ生きていた。。。体を九の字にして、テント内面に寄りかかったまま寝ていた。もう腰の痛みどころではない。風雪は続いていた。この日一日、この格好で、ウトウトを繰り返した。
 夜10時、気がつくと風の音はない。快晴。しかし寒い。酷寒。激寒。今夜も-30度をはるかに下回っている。フツウの人間ならもう、死んでいるだろう。すでに自分がエクスペディションの領域に入ってしまったことを自覚し、心底後悔した。だがくだらないことを考えている場合じゃない。空はキーンと晴れている。チャンス到来だ。行くしかない。勝負するしかない。機材を確認し、気合を入れてテントを出る。
 夜11時。何の前触れもなく、不意に眼前に光の玉が現われた。オーロラの出現である。明るい緑色をした光の玉が膨張してくる。と、すぐに横に走り始め、天空に光のアーチ(リンク先工事中)がかかった。火の玉のような光が天空を横断し、オーロラは勢いを増す。
 アラスカに来て、初めてのオーロラブレーク。極地の神秘的光景に圧倒される。「冷静に!冷静に!」カメラレンズが氷漬けにならないように祈りながら、感覚のない手でシャッターを押す。フィルム何本か撮影。よし!ようやく撮影できた。頑張った甲斐があった。と、思う間もなく。。。
 またもやあの北風が吹いてきた。雪は伴わないが、すぐに物凄い強風となる。三脚ごと吹き飛ばされないように全身で抑えて撮影。ところが。フィルム交換の際、一瞬手を離した隙に三脚が大きく傾いた。カメラレンズを載せた三脚は吹き飛ばされ、抑えようとした自分も強風をまともに受けて卒倒した。まさに烈風。風で吹き飛ばされるなんてはじめての経験だ。カメラレンズ三脚を取り戻し、全体重で支え、必死の思いで撮影を続ける。
 ところが!僕の脳ミソは大変な事態に陥っていた。そのとき、僕はバルブシャッター(自分で秒数を数えてシャッターを切る)で撮影をしていたのだが、そのシャッタースピードを数えられないのである。どうにも秒数を数えられない。5秒〜10秒くらいまで数えると、自分が何秒まで数えたのか分からなくなってしまう。おかしい。いくつまで数えたのか?で、数えなおす。また分からなくなる。あれ?おかしいな?数えられないぞ?なんで?そんなことを繰り返した。30秒なんて、とても数えられない。ただ気力だけで、無意識にいい加減にシャッターを押し続ける。果たしてこんな撮影に意味はあるのか?しかしもう、そんなことを考えることも出来なくなってきた。
 -30度をはるかに下回る気温に、この暴風。体感気温は、-50度では済まされない状況。僕は意識が朦朧として、立ちながらも気絶寸前だった。クラクラのフラフラで、もはや三脚に寄りかかってようやく立っていることしかできなかった。打ちまくられても無意識に倒れることを拒否するボクサーのように、無意味にも僕は立ち尽くした。完全にKO状態だ。
 そうこうしているうちに、とっくにオーロラのブレークは終わり、吹き荒れる暴風に無意味にも立ち尽くす自分だけが残った。まもなく夜明け。疲労困憊の極みの極み。しかし僕は撤退しなかった。徹夜で朝の撮影に臨むことにした。
 空は晴れている。マッキンリーのピークも見える。これは必ず、マッキンリーが焼ける。自分は写真家だ。撤退する理由はない。ここで倒れるわけにはいかない。絶対に倒れるわけにはいかない。必ず光を掴んで帰るんだ。僕の掴んだ光を、暗闇の淵で待ち続けている人がいるんだ。必ず光を届けるんだ。僕はただただ、その想いを強く心に抱きしめて、撮影を続行した。
 夜明け前の蒼い風景を撮る。やがて強風は止み、再び静寂に包まれた世界。宇宙的光景(リンク先工事中)が眼前に広がる。
 そして夜明け。
 朝焼けに染まるマッキンリーピーク。桃色に染まる山腹。なんと神々しい光景だ。全く信じられない光。この世界に、こんなにも美しい光があるのだろうか。自分が気絶寸前だから幻覚の世界を見ているのか?自分はもはやこの世の人ではなく、これはあの世の夢なのか?僕は極限の精神状態の中で、極限の光景を写すことに成功した。この光が、このフィルムに写しこまれていますように!そして、この光が、多くの人の光となりますように!願いを込めて、ひたすらシャッターを押し続けた。
写真 全凍死滅した機材  
 (全凍死滅した機材)

 だがその喜びもつかの間。あまりの激寒に、カメラが凍死。レンズも相次いで凍りつき、全滅。The End。。。眼前の世にも信じがたい神秘的光景を撮影できないのは写真家として万死に値したが、一方で、大自然の驚異に、冷静に敗北を認めた。僕自身も、肉体的精神的極限をはるかに超え、三脚に寄りかかってようやく立っていた状態。もはや何の言い訳もできなかった。
 僕は今日、間違いなく、全身全霊で写真に賭けることができた。その大きな安堵感に包まれつつも、息も絶え絶えでテントに戻ると、またもや気絶してしまった。 
2006年3月10日 (第15日目)
 昼ごろまで気絶していた。夢など全く見ない。気絶した瞬間に起きたら昼だった。そんな感じである。天気は快晴!朝(昼?)から快晴なんて、ルース氷河入りして以来だ。おっし写真を!と思ったが、生憎昨晩レンズは全部凍死している。日の光で溶かさないと撮影できない。仕方なくカメラレンズを天日干しする。折角の快晴なのに、撮影できない。。。イライラが募る。
写真 温度計
 (あったかい陽だまり。と思うと氷点下25度だった(表示は左側が摂氏表示、右側が華氏表示)

 それにしても、自分はつくづく写真家なのだな、と思う。この光景を、自分が見るだけでは幸せになれないのだから。この光景をフィルムに写しこんで、光を捜し求める人に見せてあげたい。その人に、光を分け与えたい。そういう気持ちが、今の僕を、極限の撮影に駆り立てている。
 日中快晴で、「今日はあったかいなぁ」と思ったら、まだ-25度だった。天日干しでもなかなか乾くわけはない。イライラしつつも、今夜を思って我慢した。
 夜になった。快晴は続いている。風もない。今夜は最終日である。クライマックスの予感。仮眠して、夜10時起床。今夜も、とんでもなく寒い。寒くてダウンジャケットを着込んだままシュラフに入り込んでいたが、寒くて体が震え続けていた。とてもじゃないが、テント、いやシュラフの外に出る気がしない。出た瞬間に永遠に冷凍保存されそうだ。だがここで負けるわけにはいかない。今まで僕のことを応援してくれた人たちを思い出す。この地球上のどこかで、僕の写真を見たい!と待っててくれる人のことを想う。勇気と根性を振り絞ってテントを出る。
 うおっ。。。寒い!寒すぎる!とでもない寒さ。逃げ出したくなる。しかし例によって逃げ場なんぞない。行くしかない、前に進むしかない。がんばれ!がんばれ!自分に言い聞かせて、スノーシューを履く。歩き出す。そして撮影地点へ。
 夜10時。間もなくオーロラが現われた!しかも明るい!昨晩よりずっと明るい。天空のあちこちで、緑色の火の玉が踊る。夢中で撮影しまくる。ここでひとついいことが!昼間に完全に乾燥させたおかげで、今夜はレンズの内部が凍らない。気をつければいいのは表面だけだ。ありがたい。昼間我慢に我慢を重ねた甲斐があったというものだ。それから約1時間半。天空のオーロラショーは続き、無我夢中で撮影し続けた。
 その後も粘って徹夜で立ち尽くしたが、オーロラは現われなかった。やがて朝へ。。。再び黄金の夜明け。撮影しまくった。
写真 テントとアラスカ山脈   
 (僕が暮らした小さなテント。アラスカ山脈を背に。)

 手足の痛みはとうに超え、もはや感覚は無くなっていた。凍傷は間違いない。実はこの頃には、歩くことも、ままならなくなっていた。またルース氷河入りして以来、ほとんど寝ずの生活は、心身ともに極限を迎えていた。だが僕は、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、あらゆる犠牲と引き換えに、ようやく「光」を掴むことができた満足感に溢れていた。
 ようやくここまで来れたんだ。辛いこと、悲しいこと、苦しいことに負けないで努力し続ければ、きっと夢に近づける。きっと、頑張れる。そうしたらまたきっと、暗闇の中で、寒さに震えて光を求めている誰かに、希望の光を届けることが出来るんだ。
 まだまだ夜明けは遠くても、僕にもいつか、自分の生きている意味が分かる日が来るはずだ。そんな極限の光への道しるべを教えてくれたルース氷河。僕の掴んだ光(リンク先工事中)は、きっと誰かの心に、小さな灯火を贈れるはずだ。僕は心の底から、そう願った。
 旅の終わりは、もうすぐそこだった。
写真 ルース氷河最後の写真

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 こちらより、作者への激励のメールをお待ちしています。

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